第6-1章
疑うことの道
うたがうことのみち
絶対に正しい者は、この世にいない。
絶対に正しい教えも、この世にない。
この神道記でさえ、疑いながら読め。
疑うことは、不信ではない。
疑うことは、思考の呼吸である。
呼吸を止めた者が死ぬように、疑いを止めた者の思考は死ぬ。
一つの考えを疑いなく信じた者は、やがてその考えの奴隷になる。
奴隷は、主人の命ずるままに動く。
自らの足で道を歩んでいるように見えて、
実は誰かの引く糸に動かされている。
権威ある者が言ったから正しい、と思う者がいる。
多くの者が信じているから正しい、と思う者がいる。
長い間信じられてきたから正しい、と思う者がいる。
しかしこれらはいずれも、正しさの証明ではない。
では何を信じればよいのか。
問え。
試せ。
確かめよ。
自らの目で見よ。自らの足で歩め。自らの手で触れよ。
そうして確かめたものを、今日の真実とせよ。
しかし今日の真実もまた、明日は疑え。
真実は生きている。昨日の真実が、今日も真実とは限らない。
疑うことを恐れる者がいる。
疑えば、何も信じられなくなると思うからである。
しかしそれは違う。
疑い続けた果てに残るものが、本当に信じられるものである。
疑いに耐えた真実だけが、嵐の中でも揺るがない。
この道を歩む者よ。
師の言葉も疑え。
経典の言葉も疑え。
そして疑った上でなお残ったものを、腹の底に置け。
ただし、疑うことと、否定することは違う。
疑うとは、問い続けることである。
否定するとは、考えることを止めることである。
疑う者は謙虚である。否定する者は傲慢である。
疑い続ける者だけが、本当の道を歩んでいる。
なぜなら道は、歩むたびに変わる顔を見せるからである。
昨日見えなかったものが、今日見えることがある。
それに気づけるのは、疑いながら歩く者だけである。