神在り
神とは何であろうか。
目に見えるものか。
耳に聞こえるものか。
手で触れられるものか。
いずれでもなく、いずれでもある。
山に神が宿る。
川に神が宿る。
風に、火に、土に、木に。
人の手が触れた道具にも、長く住まいした家にも、神は宿る。
では、神はどうすれば宿るのか。
人が何かを作る。手入れをする。大切に扱う。
その繰り返しの中に、やがて神は宿る。
神を呼ぶのではない。招くのでもない。
誠実に向き合い続けた先に、気づけばそこに在る。それが神である。
逆もまた然り。
粗末に扱えば、神は去る。
放置すれば、穢れが溜まる。
神が宿るとは、一度きりのことではない。日々の営みそのものである。
では、宿ったかどうかはどうしてわかるのか。
証拠はない。印もない。声も聞こえぬ。
しかし、長く手入れされた道具には、言葉にならぬ重みがある。
代々受け継がれた家には、目に見えぬ温もりがある。
よく手入れされた土地には、人を安らがせる力がある。
その重み、その温もり、その力。
それが神の在り処である。
感じられぬ者は、まだ向き合いが足りぬだけである。
否定する必要はない。ただ、誠実に生きよ。
やがてわかる日が来る。
神は「こうせよ」とは言わない。
「従え」とも言わない。
神とは、ただそこに在るものである。
だからこそ、あらゆるものに敬意を払う者がいる。
それは卑屈さではない。迷信でもない。
目の前の人や物を、丁寧に扱うということである。
この世には、ひとつの神のみを信じる者もいる。
それを否定はしない。
しかし、この山を見よ。この川を見よ。この土の匂いを感じよ。
ここには、ここの神がある。
汝の神を信じるのはよい。
だが、この地の神もまた在る。それを知れ。
この地に神などいないと言うのならば、この書を閉じよ。
ここから先に、汝の求めるものはない。